cero高城くんとアジカン後藤さんのやりとりにふれて

備忘録的にツイートを載せておく。


ceroの魅力、東京と地方についての追記。”「彼らが……知的なライブラリに接続する機会を持っていただろうこと、そして、それを土台に創作されたアウトプットが素晴らしいこと……それに感動したんだよね」ふむ。 / “Vo.ゴッチの日記” htn.to/AZsGSR
posted at 06:02:15

高城くんと高校生活を過ごした人間としては、音楽にしても文学にしても、あのdig力はすげーなあ、って思ってました。もちろん育った環境もあるだろうけど、自分で探り当てる嗅覚もあったと思う。
posted at 06:07:15

例えば仙川のタイニーカフェに集まっていたメンツは、今のceroを囲むゆるいコミュニティの元になっているように思う。あいにく僕はそこまでタイニーに馴染めなかった。それはうちのおかんが子供の頃からJ-POPを聴かせていたこともあるのかもしれない。
posted at 06:10:02

ただ、インターネットネイティブって感じはしないなあ。むしろはしもっちゃんは高校の頃から自由自在に操ってたよね。むろん「東京」を意識的に出していたって気もしないし。
posted at 06:12:40

『アレ若い頃に読んどきゃ良かった!聴いときゃ良かった!ってものばっか。で、それを環境のせいにしてる俺もずるいよね』っていう、後藤さんの気持ちは僕もよくわかる。それはタイニーに馴染めなかった自分にも重なる部分がある。
posted at 06:14:54

ただ『全部混ざると。そういう人たちが出てきたと。あー、ゼロ年代は終わるわーって思ったの』っていうのは、ちょっと感覚が違うの。なんだかんだゼロ年代って、digることを放棄、いや言い過ぎか、digという手段をあえて取らなかった、そういう時代だったように思う。
posted at 06:18:12

僕はそれを純粋培養って言葉で表現してるんだけど(まったく同じ表現してる評論家がいたと思う)、要するに主に邦楽のある部分だけを拡大していくような音楽が増えた。ロックでいえば、その元締めにナンバガなんかがあった。
posted at 06:21:28

それが今、後藤さんの感覚でいえば「やっと」、僕の感覚でいえば「再び」、ceroのように様々な要素をdigって、混ぜて、編みあげて、音楽を創りだそうっていう流れができはじめた、ってことなのかなーと。
posted at 06:23:48

東京と地方っていう二元論について僕自身はそんなに関心がない。それこそネットによるdigができるようになって、僕の知り合いだけでも名寄とか弘前とか土気とか春日井とか大分とか、日本各地にグッドリスナーが育っている。知的なライブラリーに接続できる環境ができてきている。
posted at 06:29:41

ただそれでも、僕は少し古い考え方をしているから、例えばCDやLPを買って聴くのとsoundcloudiTunesで聴くのとでは、イコールの音楽体験ではないと感じている。いわんやライブで観るかYoutubeで観るか。
posted at 06:32:00

ceroに限って言えば、高城くんと荒内くんはどっちかっていうとアナログ育ち、はしもっちゃんはデジタル育ち、という感じはする。これはあくまで高校時代の印象。今はわからないけど。
posted at 06:33:16

ええーと、何が言いたかったんだろう。よくわかんないけど、ceroが世に出て行ったことは同じ時代を過ごしているものとしても嬉しいし、それが邦楽にいろいろな影響を残していくことを楽しみにしている。そしてジオラマシーンで叩きたい。ちゃんちゃん。
posted at 06:36:37

おおっ、きれいに14000ツイート!ってことでもう一眠りしよう…
posted at 06:37:11